Howl's Moving Castle〜ベネチア映画祭関連記事集〜



 

9月9日付The Times紙は、ディレクターのマルコ・ミュラーがハリウッド大作映画やハリウッドスターを熱心に勧誘した結果、今年のベネチア映画祭は記録的な数の観衆を集めたが、同時に混乱も招いたとして以下のように述べています。

記者会見に集まった人数が多すぎたための謝罪など、この映画祭が初めてに違いない。あまりにも申し込みが多かった宮崎駿のアニメーションのために他の500人のジャーナリストと一緒に並びながら、私はシネマパラスの外の巨大スクリーンで(記者会見を)見た。


−9月6日付Financial Times紙はベネチア映画祭に関する記事の中で「ハウル」に言及しました。

アジア映画は今年は不況だという噂だったが、Jia Zhang-keの「The World」と宮崎駿の「ハウルの動く城」はこれまでのところコンペ部門の出品作品の中ではベストだ。

(中略)

「ハウルの動く城」は、「千と千尋の神隠し」を作った日本の巨匠による、素晴らしさにあふれたアニメーション映画である。

薪を貪り食う(「ウマい!」)話す炎、跳ね回る10フィートのカカシ、魔術のような色彩にあふれた風景の中を蒸気を上げながらガチャガチャと動き回る映画のタイトルにもなっている城など、この映画は面白い創造物にあふれており、それらはどのシーンでも素晴らしい。

西洋的なおとぎ話の世界での少女の冒険というプロットは、「千と千尋」や「もののけ姫」に比べると雑多なアイディアの寄せ集めである。しかしこの監督のようにファンタジー映画を作れるものは誰もいない。63歳の世捨て人(宮崎)は現代のアジア映画における生ける伝説に最も近いに違いない。


−フランスのリベラシオン紙は9月6日付でハウルの批評を掲載しました。
(翻訳byおーたさん。おーたさん、ありがとうございました)

ベニスのモストラ。アニメーションの天才日本人が『ハウルの動く城』でコンペ出品するために再びやってきた。先入観を覆し想像力の美しさに唖然とするバロック映画。

マジック・ミヤザキ
by ディディエ・ペロン

2004年9月6日月曜、リベラシオン

ベニス発特信


世界の他の場所と同様にベスランの虐殺のイメージがモストラ(映画祭会場)をも直撃した(「事件」のページ参照)。イタリアのマスコミは北オセチアの人質奪取を傷ついた子供と死者の写真付で10ページに渡って詳細に語っている。金曜夜、ミシェル・マンのCollateralの上映招待者には一分間の黙祷が要求された。

『ネバーランドを探して(Finding Neverland)』の記者会見ではイギリス人脚本家マシュー・バリエがピーター・パンの冒険をどんな風に想像したのかをマーク・フォスターが(いくぶんゆっくりと)語ったのだが、ある記者がジョニー・デップに声を掛けて、現実がこのような恐怖の手を広げているときに想像の世界に人々を逃げ込ませるのはまともなことだと思うかと訊ねた。「かつてないほどに」とこの俳優は応え、「生きるとはどうあるべきなのか、そして現実にはそうなっていないことをその恐ろしさと共に理解するするために[も想像力は必要だ]」と語った。


快挙

この想像力の精神的優位性という問題は、日本アニメーションの天才、宮崎駿の新作フィルムの世界初上映に参加するチャンスを掴んだ幸せな観客にもぶつけられた。この映画をコンペに入れることに成功したのは映画祭の新任ディレクター、マルコ・ミュラーの快挙に違いない。宮崎は残念なことに[上映会場の]リドに来ることはできなかった(彼は『千と千尋の神隠し』のときもベルリンに金熊を見に来なかったのだ)が、プロデューサーで友人の鈴木敏夫が一人でやって来た。

ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説に基づいた『ハウルの動く城(Howl’s MovingCastle)』は間違いなく彼の作品の中でもっともバロック趣味である。映画祭のカタログに掲載されている製作趣旨の中で彼は言う。「老人のためのアニメーションは可能でしょうか?この映画で私は答えを出そうとしました。」

実際、あるシーンから別のシーンで主人公の歳が変わってしまう。ソフィーは18歳で古いヨーロッパらしき街の帽子屋の店員で、ある日、金髪でイヤリングをつけたHunky Dory時代のデビット・ボウイに似た魔法使いハウルとすれ違う。宝石で飾り立てたでっぷりした女性である荒地の魔女は彼らの恋仲を疑い、ソフィーに呪いをかけて痛風持ちの90歳のおばあさんに姿を変える。その最悪の呪いを解くためにハウルの城を求めて彼女は家を出るのだが、その城は蒸気機関で山から谷へと休むことなくゆらゆらと歩き回っている。


大渦巻

これは驚異的な映画のほんの出だしに過ぎず、語りと時代と場所の一貫性の要素を崩していくことにかけて宮崎はデビット・リンチの『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の七日間』に匹敵する。怯えさせもするが唖然とさせもする大渦巻である。火が映画の鍵のようだ。急展開する事態にたっぷり参加する城の暖炉に住む炎、ハウルに飲み込まれて彼を半悪魔・半王子の姿に変えて黒い羽の雷撃の中で惑星の上をすっ飛んで行かせる炎、歯の付いた鳥の形をした爆弾を撒き散らす飛行兵器の血の色に染まった空の中で曖昧に展開して物語の舞台を赤く染めあげる炎、老人の体に宿った少女ソフィーを縛り付ける伊達男への情熱の炎。

宮崎には自由が必要であり、それが過去の作品で数百万人の観客を集め、スタジオ・ジブリで富を集め、長く温めてきたこの映画の作業に取り掛かることを可能にした。この酔いしれた物語への執念はいかなるスキも与えない。情景は絶えず入れ替わり、個人は溶解し、世界を逆向きにした深淵の上で床が開き、城の部屋が廃墟になりたちまちにして復元され、ソフィーはハウルが通過した断片を巡り歩き、ハウルは突飛な格好であっちこっちの筋書きの中から立ち現れる。時間は己を見失い、不一致とディオニュソス的喧騒は登場人物達のアポロン的願望と抗争する。[訳注:ディオニュソス的=混沌とした、アポロン的=調和的で分かりやすい、程度に考えてください。詳しくはニーチェの『悲劇の誕生』もしくはその解説書を参照。こんなふうに読者に教養を強要するんだから疲れます。]


霊感の息吹

映画人にして創造主は彼の映画を我々の眼前で展開し、折りたたみ、しわくちゃにし、削除し、引き裂いてみせる。神様!我が友よ!これはなんという冒険なのだろう。鉛筆書きされた単純な絵から理想状態への階段へ持ち上げていく人間離れした霊感の息吹の中、なんという苦悩であり、なんという喜びであり、なんという狂気なのだろう。脳細胞が火照ってしまったその後は、眠るためにルクソミール[睡眠薬]のサンドイッチをコップ一杯のロヒプノール[精神安定剤]で飲み込むことぐらいしか思いつかない。


−米国のエンタテイメント業界紙Varietyは、9月7日付でDavid Rooneyによる「ハウル」の批評を掲載しました。(以下かなり詳細なストーリー紹介が含まれていますので、ネタバレにご注意ください)

日本のアニメーションのマエストロ、宮崎駿が鮮やかな想像力の深い泉に再び浸かった。「ハウルの動く城」は、アジアの民話や精霊の世界から離れ、魔女や魔法使いの住むヨーロッパのおとぎ話の世界に足を踏み入れている。映画の最初の一時間の間、ストーリーはアカデミー賞を受賞した「千と千尋」よりもさらに力強くどんどん進み、その後その動きはさらに不規則になる。つまり、話をさらに整理して、もっときちんとした翻訳をすればもっとよくなるかもしれない。しかし、絶え間なく降り注ぐアイディアと創意が、この映画を吹き替え版でも原語版でも子供も大人も楽しめるものとしている。

英国の人気児童文学作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの2000年の本に基づいてはいるが、宮崎の最新作は過激な変身と自分自身の発見と成長への夢のような旅に対する彼の変わらぬ魅了に今回も忠実である。舞台設定は、はっきりしないが19世紀末と思われる時代と、中部ヨーロッパと英国の港湾都市のミックスにもみえる架空の都市の寄せ集めである。しかしアニメ(独特の)鋭敏な感受性によって描写されているので、多くの場合それは西洋のフェアリーテールの雰囲気を忠実に再現しようとするよりも、潜在意識から沸き起こってきたもののように見える。

18歳の内気なソフィーは亡くなった父の店で帽子を作って忙しく働いている。街にしばしば現れる若い魔法使いハウルと彼の動く城は、街の人々の好奇心と恐怖の的であった。街に出かけたソフィーは兵隊達にしつこく言い寄られるが、思いがけずハウルに救われる。ハウルは翼を広げ、空を飛んで彼女を安全なところまで運んだ。しかし二人を見張っていたどろどろした塊のようなものが、上品でグラマラスな服を体にくくりつけた太った意地悪婆の荒地の魔女にそのことを報告していた。嫉妬にかられた魔女はその後帽子屋に現れ、ソフィーをしわくちゃの婆さんに変えてしまう。

街を離れ山地へと向かったソフィーは、ポーゴー(ホッピングスティック)のように跳ね回るカブ頭のカカシの助けとガイドを得る。雨を避けるために、大胆にもソフィーはハウルの城に足を踏み入れる。

この映画の最も幻惑的な創造物の一つである城は、ヒエロニムス・ボッシュを経由してモンティ・パイソン(の映画)から出てきたようなものにも見える。小さな小屋、煙突、歯車、車輪、砲塔、先史的な翼などがもつれあった大質量が、巨大な鳥の様な足によって運ばれている。

城の中で、ソフィーは生意気な火の悪魔、カルシファーに出会う。捕まってハウルに使われているカルシファーは、多分最もうまくウィン・ジョーンズの本からアニメーションになったキャラクターである。ソフィーはまた、さまざまな王国に通じている4方通行のドアを守る少年、マルクルに出会う。

魔女の呪いへの怒りに突き動かされ、ソフィーは自分の中に新しい活力と強さを見出す。ソフィーは家の中に秩序を打ち立てるという仕事を担い、ハウルが故国の戦争を助けるために王に呼ばれると、主要な役割を引き受ける。

国を悩ます飛行船の爆撃機と戦艦は登場するものの、戦争は物語にとって重要な要素となることはなく、戦争に焦点が当たったと思うとまた外れたりで、ちょっと散漫になっているともいえる。

同様に、宮崎のストーリーの合理性は、さまざまな出来事の混乱したもつれ合いの中で失われる。王の魔女、マダム・サリマンがその悪の力を誇示し、ハウルが人間と鳥の形態に変化するために苦しみ、徐々につちかわれたソフィーの魔法使いへの愛が彼女に大胆な行動を取らせ、皺の下の真実の姿を現す助けとなる。多分、若さを取り戻すためのソフィーの探求が、話を進めるための力を欠いているのだろう。

しかしながら、話の一貫性が必ずしも強いとは言えない広がりすぎた後半にもかかわらず、この映画はウィットと、美しさと、目の覚めるような色彩と、豊かな細部に始終満ちて、わくわくさせる。ソフィーとマルクルが湖の岸で印象派が描くような花畑の真ん中に座っているシーンのように、無邪気なシンプルなイメージが多く見受けられる。また、カルシファーが薪にしがみついて燃え続けようと必死になるシーンや、荒地の魔女が王の宮殿の階段を登ろうとしてゼリーのようにたわむシーンなど、ちゃめっけのあるユーモアも多い。

今回の課題は老人のためのアニメーションを作ることであると宮崎は話しているが、ソフィーは元気なヒロインであり、映画の間中ほとんどずっとソフィーがまとっている歯のない老婆という外見では、その若い感情と心を隠すことができない。

金髪でハーレクインロマンス風衣装を身につけ、宝石で飾ったグラムロッカー的外見のうぬぼれ屋の美少年であるハウルは、ライバルの魔法への恐れで震えながら、ソフィーのいいなりになる。傲慢モードの時も、無害な古桶いっぱいのラードにされてしまった時も、荒地の魔女は素晴らしいキャラクターである。そして、サリマンから逃げてソフィーのお供となる喘息もちの犬ヒンには、ディズニーの名作の小動物のようなひょうきんさがある。

監督独自の明白な日本らしさが現れているため、日本語の声はヨーロッパ風のキャラクターとぶつかることはない。

セルアニメーションが着実に消滅しつつある今、宮崎とスタジオジブリの技術は伝統的な漫画映画の見かけを守る一方で、デジタル技術とCGをしっかりと取り込んでいる。キャラクターは手描きされた後デジタルスキャンされ、背景は100%手描きである。そのため、この比類なき日本のアニメクリエイターの映画は、大切にされるべき消えゆく芸術のようにも見える。

別の作家の原作に基づくこの映画は、「千と千尋」や「もののけ姫」のような宮崎のオリジナル作品での天高く飛翔するイマジネーションには及ばないものの、驚きと魅力に満ちあふれたエンタテイメントである。

東宝による日本公開は11月20日に予定されているが、ディズニーは米国でのリリース予定をまだ発表していない。ブエナ・ビスタ(ディスニーの子会社)のジブリとの包括的な契約により、ディズニーはこの映画に関して最初に契約を結ぶ権利を有している。


−オーストラリアのThe Age紙は9月6日付の記事の中で、ベネチア映画祭におけるアメリカ映画とヨーロッパ映画の対立の構図を描いたあとで、締めくくりとして以下のように述べています。

しかしながら、この映画祭のこれまでのところのベスト映画は、大西洋のどちらの岸(米国とヨーロッパ)から来たのでもない。日本のマエストロ、宮崎駿による新作アニメーション「ハウルの動く城」は、小さな帽子屋と、彼女を老女に変えてしまった悪い魔女、暖炉を支配し巨大なガチャガチャと動き回る城を動かしている悪魔と、その悪魔に心臓をささげた魔法使いの物語である。

宮崎の空想力は明らかに無限であるが、二時間にわたる映画の間中観客の息を止めるのは、彼の古風に描かれた背景のまったくの美しさである。

「Finding Neverland」(ジョニー・デップ主演の「ピーター・パン」の作者に関する映画)を朝早く見て、その晩最後に「ハウルの動く城」をみれば、あなたもピーター・パンのように永遠に子供でいられると感じるだろう。


−9月5日付ロイターは「日本のアニメーターがベニス映画祭に魔法をかけた」と題するニュースを配信しました。

魔法使い達、魔法の動く城、そして破壊的な戦争が日曜日のベニスのスクリーンに映し出された。日本のウォルト・ディズニーとして世界に知られる宮崎駿のアニメーション映画、「ハウルの動く城」である。

さまざまな映画祭で栄誉を受け、2003年にはアカデミー賞を受賞した「千と千尋の神隠し」で、宮崎はアニメ(日本のアニメーション)を世界のエンタテイメントの中に位置づけた。

ベニス映画祭のメインコンペティションに30年ぶりに出品されたアニメーション映画である「ハウルの動く城」は、魔女によって90歳の老婆にされた少女ソフィーがハンサムな魔法使いハウルの助けを求める話である。

しかし、この映画の作り手達にとって、これは同時に戦争や、暴力や、経済危機によって引き裂かれた世界にわずかな希望を投げかけるものでもある。

「この映画は我々が今日生きている世界に関係しており、だから普遍的なメッセージを持っている」と、今回の世界初上映に参加したプロデューサーの鈴木敏夫はロイターとのインタビューで語った。

「この映画を作っている最中イラク戦争が起こった。日本は現在あまりいい経済状況にない。若者も年寄りもあまり幸せではない」と通訳を通して彼は語った。

映画の中では、歩き回って荒い息を吐き、4つの異なる世界に通じている奇妙な仕掛けであるハウルの魔法の動く城に、ソフィーは助けを求めることになる。

家政婦のふりをしたソフィーは、彼女にかけられた魔法を解こうとする中で、気難しい火の悪魔と、ハウルの小さな助手と友達になる。

結局、魔法と絶え間ない爆撃と戦争から二人を救うのは、ソフィーのハウルに対する愛である。

ベニス映画祭のディレクター、マルコ・ミュラーは「ハウルの動く城」を「この映画祭の中で多分最も強い反戦メッセージ」と呼んだ。

それはまた、「千と千尋」が2億7千ドルという興行収入記録を打ち立てて以来、今年日本でもっとも公開が待たれた映画でもある。

海賊版を防ぐためにカメラやコンピューターを観客が持ち込まないか厳しいチェックが行われたLido(上映が行われた島)の劇場では、評論家と観客の歓声が映画を迎えた。

健康上の理由でベニスには行かなかった宮崎(63歳)にとっては、この映画は日本と世界の子供たちへの贈り物である。

「宮崎は子供たちを愛している」と鈴木は言う。「世界は生きるに値する場所で、発見すべき美しさに満ち溢れているということを、宮崎は子供たちに伝えたいのだ」